天ノ少女 感想

殻ノ少女シリーズ最終作。
完結作の教科書のような至高の作品。
ユーザーの琴線に深く響くエンディングであったことを確信する。

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これまでブログでは「殻ノ少女」シリーズについて触れることはなかった。
ちなみに本作、全てのCGを回収するためには3周する必要があるので注意。

冬子という唯一無二のキャラクターに釘付けになるね。
セリフ・声・キャラデザのどれをとっても完璧。
常に問いかけるような口調の彼女。
ミステリアスにも程がある。
殻ノ少女シリーズとは偏に彼女の存在によって成り立っている。

私的にはどちらかというと紫の存在も大きい。
いわば妹の究極ともいえるか。
妹ヒロインとはこうあるべきだろう。
慎ましく兄を支える。
家に帰った時の安心感よ。
殺伐としたストーリーに一定の癒しを与えてくれる。
その辺りの緩急もシリーズを通して良かったのでは。
私の好みなのであるが。
紙の上の魔法使い」の妃をよりお淑やかにした感じかな。
大和撫子が好きすぎるのである。

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そして六識命。
この人物が裏の主人公なのではと考えてしまう。
稀代の殺人鬼。
私は完全に彼の虜になってしまった。
この作品の恐ろしさでもあるね。
主人公の仇敵にさえも魅力を感じてしまう
これほどまでに悪役らしくない悪役を、私は他に知らない。


作品の感想・考察

以上のことを踏まえたうえで、本作の感想に入らせていただく。
これより私が記す内容は、全て私の考えであり異論はあるべきである。

まずこの作品は、登場人物の多くが偏執(パラノイア)に囚われている
玲人のパラノイアは「冬子」であるし、八木沼のパラノイアは「姉」である。
六識命のパラノイアは「中原美砂」であり、真崎のパラノイアは「或る日の皐月」であろう。
そもそもパラノイアとは何だったのか。
きっかけが欲求であれ体験であれ、各人の心奥底に秘められている何か。
パラノイアと作品内で言われているものは、単純化すると行動原理である。
パラノイアから解放されることが、この作品の終着点である

各人のパラノイアからの解放とは。
八木沼は姉の死をもって救われた。
六識は八木沼すらも救った。
姉というパラノイアから。
脱獄に手を貸したことへの借り返しかもしれない。

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真崎であれば、かつての皐月との再開、そして娘との対面である。
となると、なぜ真崎と冬見はくっつかないか。
私としても是非くっ付いてほしいところだ。
娘と3人、雪子も含めた4人で仲良く暮らしてというのが理想だろう。
ところが、真崎も冬見も適度な距離を取りつつ理解している。
もう元には戻れないことに。
彼らが元に戻るには、時が経ちすぎた。
彼女は最早皐月ではなく、冬見なのだ。
彼もまた、理人ではなく智之である。
真実を知り、また過去の彼ら自身も「死んだ」ことによって最早互いに入り込む余地はなくなったのだろう。
「虚ノ少女」のリマスター版に付属する小説を読むと、その悲しさが理解できる。
冬見の心情が描写されているのだ。
彼女もまた、六識の被害者である。

それはそうと真崎と紫がくっつく展開だけは受け入れられない。
ずっと愛で続けた妹を失った感じ。
娘や妹を手放す父や兄の気持ちが少しは理解で気がする。
前作まではただのヘタレだった真崎が、立派な探偵になっていたことが唯一の救いか。

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黒矢尚織は自らヒール役を買って出る格好良い人物だということが理解できる。
困っている人物を放っておけないのだ。
菜々子然り、冬子や色羽然り。
彼の行動については、最後に考察する。

六識命のパラノイアとは。
妹・中原美砂に他ならない。
正気を保っていながらも殺人鬼であった。
現代風にいうなればサイコパスである。
冬子は美砂のいわばクローンともいうべき存在である。
六識がそうしたのだ。
私個人的には六識の実の娘なのではないかと考えていた。
近親相姦によって生まれた子なのではと。
そうなると玲人は、仇の娘を愛したことになる。
実にらしい展開ではないかと思うのだが、彼は無精子症である。
ただ、美砂が兄を想うあまりに奇跡を起こした上での彼女なのだから、あながち間違いではないだろう。
それはそうと最後はやけにあっけない終焉だった。
玲人が冬子を追い続けたように、彼は美砂を探し続けた。
中原美砂というパラノイアから解放された瞬間。
彼は人に戻れたものと信じたい

「美砂に会えた」というあの言葉。
制作した「彼女」への最大の賛辞ではなかったか。

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そして、玲人のパラノイア。
冬子の死は前作で確定していたものの、彼女の存命を願っている自分がいた。
気持ちの整理がつかないままだったが…。
あの分骨、そしておそらく娘であろう存在によって解放されたのではないだろうか。
彼女が幼いままであれば…。

それはそうと唐突なステラとの関係だったので驚いた。
冬子という人物を介して、互いに足りない何かを埋め合わせるような関係。
彼女は良くて、何故杏子は選ばれなかったのか。
杏子さん大好きすぎてあの結婚式がNTRモノのエンディングに思えてしまった自分が恥ずかしい。
結局彼らは最愛の人を失っている。
玲人に至っては二度も。
悲しみを悲しみで慰めることはできない
最早2人を惹きつけるものが何であるのかわからないのだ。
杏子にとっては、空虚な心の穴を埋めるだけの愛情を持った男性。
玲人にとっては、冬子という存在をいつまでも共有し続けることのできる女性。
お互いにとって最良の選択であったといえよう。

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結局色羽の父親が明かされることはなかった。
血液型検査をしたとしてもその文書を破棄してしまう。
朽木文弥を見ていると、冬子が他の誰かに犯されていそうな気がして怖い。
そんなことを考えたのは私だけかもしれないが。
父親を明かさない辺りこの作品らしいなと思うわけで。

…などと考えていたら付属小説にヒントがあったね。
彼女ら3人は戸籍謄本を取りに行った。
そこには彼女の本当の母親について記載があるだろう。
そしておそらくは、父親の名前も―――――。

玲人のパラノイアは、冬子の忘れ形見によって終焉した…かに見えた。
いかにもこの作品らしいなと。
最後にこんな結末を持ってくるのかと。
ここで思いきり泣いてしまった。
まさか彼女に再会できるとは。
「殻」が邂逅、「虚」が別離とするならば、「天」は旅立ちであるような気がしていた。
そんなことはなかった。
「天」もまた、邂逅であるのだ。

父と娘のこの先に、幸福があらんことを

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最後に、「プルガトリオの羊」、そして「エデンの少女」の内容について考察する。

以下少々、著者が「葛城シン」であるとして読んでいただきたい。

兎の門番とは誰なのか。
兎の門番は、著者である「葛城シン」である。
彼のパラノイアは、「朽木冬子」である。
第二の母である「中原美砂」がきっかけではあるが。
彼は、結末で異常なまでの執着を「メアリ」に見せている。
よって、「メアリの」モデルは「冬子」。
次に「リリイ」であるが、彼女は「メアリ」の現身であるとされている。
「リリイ」は「ステラ」であろう。
幼少期を共に過ごした彼らだが、葛城シンは2人を冬子として認識していた
そして、失語症となり現在もその影響が残る片割れを感情を喪った現身として表現する。
つまり、彼女たち2人が「葛城シン」にとっての「冬子」である。
このことは、杏子すらも拒んだ玲人がステラを側に置いたことからも窺える。
彼はステラに冬子を感じていたのだ。
玲人のパラノイアもまた、冬子である。
葛城シンと時坂玲人、全く異なる立場でありながら同じ感覚を抱いていた
何故ステラなのか、全てがつながった。

ここで、葛城シンの狂気が見て取れる。
現実世界では「冬子」に何ら影響を与えることができなかった。
ならせめて、文章の中だけでも「彼女」を思いのままにしようと。
自分で手を下し、導くのだ。
結局文章では飽き足らず自身で手を下しかけるが。
ここで留意しておきたいことは、傍から見る分には狂気であるが、本人は至って正気であることだ。
六識命然りであるが、パラノイアとはそういったものであると私は定義する。

と、ここまで著者が「葛城シン」であるとして考察させていただいた。
だが、実際にこれらを執筆したのは「黒矢尚織」である。
名義を「葛城シン」として彼を殺害後に出版したのだ。
ここまでは、前作「虚ノ少女」の流れだ。
何故彼はあたかも「葛城シン」が書いたような文章を出版したのか。
それは、前作のテーマである「」が影響している。
彼は自身でも述べているように中身が空虚であり、それ故に「葛城シン」を取り込んだと考えることができる。
執筆している間、彼は確かに「葛城シン」であった
では、彼のパラノイアは何か。
彼は、「自分が書いた文章を人に読んでもらいたかった」と述べている。
それのみが彼の真のパラノイアであるとは思えないが、事実ではあろう。
上記にもある通り、彼は他人を取り込むほどに空虚に苛まれている。
そんな彼が望むこと。
それは、「彼自身を自身の文章で表現すること」である。

「プルガトリオの羊」のみでは彼は解放されない。
彼自身は登場しないのだ。
「エデンの少女」ではどうか?
「リリイ」は、感情を喪った少女として登場する。
葛城シンが書くならば、「リリイ」は「ステラ」となる。
しかし、こう考えることもできる。
「黒矢尚織」が表現する「リリイ」は、元々感情を知らない存在、つまり赤ん坊である。
ここでは「色羽」となる。
「色羽」の存在を認識しているのは「尚織」や「菜々子」など極小数のみ。
赤ん坊が感情を手にする、つまり成長することに他ならない
「リリイ」が「メアリ」の現身とは、端的に娘ということを示しているのだ。
兎の門番は、その現実を受け入れられない「葛城シン」である。
ここで「黒矢尚織」は、「天使」として彼女の成長を見守っているのだ。
彼が「色羽」の幸福を心底願っていたことが暗示されている。

彼は最後の最後で、彼自身を表現することになった。
黒矢尚織は、パラノイアから解放された。

そして私は、衝撃の事実に気づいてしまった。
「メアリ」は、自殺したと述べている。
「メアリ」、つまり「朽木冬子」が出産後に自殺したことが暗に示されているのだ。
生きることに絶望したとは思えない。
黒矢尚織は最善を尽くしていた。
彼女が死ぬ理由とは唯一つ、「時坂玲人」のパラノイアを断ち切ること
自身の命が永くないことは分かっていた。
彼女は運命に依ることを良しとせず、自身の意思によってそのパラノイアを断ち切ろうとした。
彼女自身のパラノイアも「玲人」だったのかもしれない。
その上で、自身の娘に愛する人を託したのではないだろうか。
娘がいずれ父親に辿り着くことを見越していた。
最期の時までミステリアスであった

そんな彼女を、尚織は「エデンの少女」で非難している。
尚織の行動や、そしておそらく六識の影響を受けている宗教観を鑑みると、キリスト教的宗教観を抱いていたことが予想される。
基本的に宗教において自殺は堕胎と同じく禁忌である。
また、彼女が生きることを諦め、娘の成長を見ることがなかったことに対しても同じような感情を持っていたのだろう。
彼の著作で彼女が救われることはなかった。

総括すると、黒矢尚織は敵でも何でもない。
人々の幸福を願う不器用な人間なのだ。
もし立場が異なり、真崎のように玲人と語り合うことがあれば、良き友になったに違いない。
色羽が無事に育っているところを見るに、彼の想いは報われたのではないだろうか

以上が「エデンの少女」の私なりの解釈である。
異論は当然あるべきで、何か指摘する点があればコメントしていただけると幸いである。


全体として

「殻ノ少女」シリーズが終わってしまったということに、大きな喪失感を覚える。
玲人と冬子の物語に終止符が打たれてしまったのだ。
ここまで複雑に絡み合った群像劇が他にあるだろうか。
シナリオ・原画・グラフィック・音楽、全てにおいて完璧であった。
このクオリティを維持しているエロゲブランドが未だ存在することに希望を見出している。
イノグレの次回作は「カルタグラ」のリマスター版になりそうだが、完全新作にも期待したい。
願わくば、玲人とステラ、そして色羽の物語に触れたいと思う。
 
「殻ノ少女」シリーズが完結したことについて、最大限の称賛と心からの感謝を送りたい。